安土城と清涼殿

しばらく城跡シリーズを続けます。城跡でもっとも有名なのは安土城ではないでしょうか、最も有名なのにわずか三年で炎上し解体・移築・放置されています。広大な敷地の石垣、信長本廟と菩提寺の摠見寺(そうけんじ)の三重塔、二王門は今も見学する事ができます。

JR安土駅前に建つ織田信長公。本能寺の変さえなかったら発展して大阪のような街になっていたかもしれません。当時画期的な街づくりをしていて、一部の業者が市場を握る特権階級を無くし楽市楽座でだれでも市場に参入できる仕組みで競争をさせ経済を活性化させました。兵農分離は農民と武士の役割分担を明確にして、更に強制的に家臣を城下に住まわせることで衣食住の消費経済を回した。

枡形虎口(ますがたこぐち)

安土城は建築に三年、入城してからも内装等すべて終了するのに三年、実際に使用されたのはわずか三年で内装も含めた完成して間もなく明智軍に城を奪われ、その後山崎の戦いで明智軍が破れて間もなく、天守・本丸が謎の炎上をしました。その後も二の丸に信長本廟がたてられ三法師(信長直系の孫)が安土城に入ります。

誰が火を点けたかで、明智光秀の本能寺の変の動機や黒幕がわかるかもしれません。いまだこの安土城は発掘が進んでないので色んなことが分かってくるでしょう。秀吉が織田家を弱体化する為に天守を利用できないよう、どさくさで火を点けたとしたらたいした悪党です。また織田家側が何らかの証拠隠滅をはかり火を点けたとしたらどうでしょう。光秀の動機が分かるかもしれません。


三法師は後に織田秀信と改名し秀吉に従属します。関ケ原では西軍に組みして高野山に追放されます。死罪は免れたものの、因縁のある高野山に送られ修行を積みますが、高野山も追放されます。比叡山焼き討ちの因果応報でしょうか、密教による調伏でしょうかなんにせよこの後に病死します。




大手道 幅6m、180mの直線が続きます。両端には側溝を備えています。

虎口より入りメイン通路である大手道。今までの山城と違うところは直線にまっすぐに上がることができ左右には、伝秀吉邸や家康邸、前田利家邸の立派なお屋敷跡がありとても豪華なメインロードとなっています。天皇の行幸に備えた石段で、もし実現していたら天皇が本丸まで上る道中は城下町の民衆にも信長の方が格上の印象を与えたでしょう。

安土城は当時は北・西・東は琵琶湖に囲まれていました(現代は埋め立てられています。)

よって陸からの進入経路は南側しかなく、大手道ルートと摠見寺ルートの二か所があり、見学する場合は南側の大手道ルートより入場し二の丸、本丸、天守跡を見学してからの帰りは南西へ摠見寺の三重塔、摠見寺跡、二王門をくぐる摠見寺ルートで帰りました。

伝前田利家邸跡


伝羽柴秀吉邸跡上段 虎口には高麗門があった。住居になる主殿・台所等があった。上下二段の敷地は広く秀吉が重用されていたのが分かります。

伝羽柴秀吉邸下段

虎口には壮大な2階建ての櫓門があった。馬6頭を飼える厩、武士が控える部屋、遠侍があった。ここは厩以外は広場になっています。

天皇が行幸する予定の大手道にはなんと石段にいくつか石仏が使用されていました。信長は仏教がきらいなのかと思いきや摠見寺というお寺を安土城郭内に移築してあります。


摠見寺仮本殿・・摠見寺の仮本殿は徳川家康邸跡に建てられています。丁度特別拝観の日で有料で内部見学できお抹茶接待もありました。


無造作に飾っていた2~3千万はしそうな曽我蕭白の12面屏風。本物まちがいありません。


これも廊下に無造作に置いていた、長澤芦雪と思われる絵、状態は良くないものの200万円はするでしょう。聞くとこれらの美術品はだれかがいろんな所から持ってくるとの事でした。

城郭内でも重要な部分の入場門の黒鉄門

仏足石も石段にありました。


織田信雄公(のぶかつ)四代供養塔・・初代信雄、二代高長、三代長頼、四代信武


二の丸跡には秀吉が建立した信長公本廟があります。太刀、直垂、烏帽子などの遺品を埋葬しました。一周忌には織田一族や家臣を集め盛大に法要しました。

本丸跡・・信長公記には天皇を招く御幸の間があったとされます。本丸が清涼殿とすると信長はどこに住んでいたのか?天守に住んでいたとすれば、これも天皇を見下ろす位置になり天皇側が2度の行幸依頼を断ったのもうなづけます。

お待たせしました、頂上部にある天守跡です、現在立っている場所は天守の地下一階部分です。地上部分はこれの面積の2倍あったそうです。5層7階(地上6階地下1階)の吹き抜け構造でした。ルイスフロイスはヨーロッパにもない壮大な城であったと書き残しています。


本丸の楚石は一際大きく、清涼殿と同じようなものがあったと想定されています。

清涼殿を見下ろすように天守があり、信長は天守に住み本丸は行幸用に使用する為に作られていたとすると天下統一事業に天皇を利用しようとしたのか、遷都の下準備かはわかりません。天守と清涼殿を燃やしたのは証拠隠滅の為、織田方かもしれませんね。


赤く焼け焦げたと思われる石垣・・20年かかった発掘調査・整備は終わっていますが、今回の見学順路の主要部分だけであり全体を調査・整備するのには50年以上かかります。天守については地上5・6階の部分が信長の館で復元されていますので次回ご紹介します。


ここは信長公の菩提寺、摠見寺跡で帰りの道順のルートに組み込まれています。安土城が炎上した時は残存したそうですが幕末に火災にあって焼失しました。


奇跡的に残っている三重塔創建は1454年、信長が築城の際に湖南市の長寿寺から移築したものとされる。1555年、1604年、1914年に修理している。

摠見寺跡地からの景色は抜群です。安土城は築城当時は琵琶湖に囲まれ水上に浮いたような景色でしたが、今は埋め立てられ天守跡からも琵琶湖は遠くなっています。


摠見寺二王門、棟木に「元亀二年七月甲賀武士山中俊好建立」とある。金剛力士像には「応仁元年因幡院朝作」の造像銘が残っている。信長が甲賀より移築した門である。

だれが安土城に火を点けたか?

①明智の残党・・炎上した時点では明智軍はすでに負けている。しかし明智秀満が坂本城にさったあとに残務整理で残っていた可能性はある。

②織田信雄・・ルイスフロイスは信雄が犯人としている。安土城に何か不都合な事を信雄が知っていれば可能性はある。

③羽柴秀吉・・秀吉が織田信長親族を差し置き天下を取ろうと考えていたなら、織田信雄が入場すればやっかいな事になる為、先手を打ち不審火として炎上させた。廃城するまでの流れでも納得できる。

と言う事で真犯人は秀吉ではないでしょうか。いざとなれば義理人情のない戦国時代ですからありえない話ではありません。

水色の琵琶湖部分は現代では保々埋め立てられています。見学コースは大手道に料金所があり二の丸、本丸、天守摠見寺を下ります。

帰りは入場門に戻りますが門番のようなアマガエルがいました(ノブナガエルと命名)。


摠見寺の御朱印、人間50年下天の内に比べれば夢幻のごとくなり

下天と言うのは六道の思想によるもので天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道があり人間道の一つ上のランクの天道の中にも更にランクがあり、下天は天道の中の一番下のランクです。この下天には1日が50年で寿命は500年と言われています。つまりは人間の50年と下天の500年と比較しています。


信長の好んだ幸若舞は源平合戦で平敦盛を討った熊谷直実の事を謡っています。平家軍は一の谷の合戦で敗れます。青葉の笛を取りに行き退却が遅れた平敦盛は船に乗ろうとしますが源氏軍の熊谷直実が見つけて一騎打ちを呼びかけます。須磨海岸で騎馬戦から組合い直実が首をとろうとすると相手は自分の息子と同じくらいの若武者でためらいます。他の源氏の武者が追いついてきたので意を決して首を取る。後悔した直実は後年法然の弟子になり法力房蓮生と称する。



幕末タイムトラベルⅡ!

幕末タイムトラベル第二弾です。

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