安土城天主炎上
織田信長は何になりたかったのか?なぜ殺されたのか?本能寺の変の謎は明智光秀の動機と黒幕の存在です。悲劇的な死と謎を残して時代は秀吉により天下統一に向かい織田家親族は排除されていきます。
実際は安土城の設計については資料が少なく、わずかな文献や加賀藩の天守指図を基に復元されています。狩野永徳が画いた「安土城図屏風」は天正遣欧使節がローマ法王グレゴリオ13世に献上しましたが、現在に至るまで所在不明となっています。今でも捜索中ですので今後発見されればごろっといままでの安土城のイメージが変わることはまちがいありません。
5階部分です、メインの障壁画は釈迦説法図、この部屋は内陣で、まわりに廊下があり外陣となっている。画面右側には階段がある。前述の安土城図屏風が発見されれば外装の色の配置がはっきりしますし天守そのものの復元も夢ではありません。
最上階の内部です、ここに座ると王様どころか神になったような気がするのではないでしょうか。ルイスフロイスはどこまで上がったかしりませんがヨーロッパにもない壮大な城であると書き残しています。ルイスフロイスの日本史には色の配置は最上階はすべて金色と記述があります。
タイムマシンに乗って見学したい城No1です。
武田勝頼討伐に功績があった徳川家康をもてなした時のメニューの再現、この饗応に失敗した光秀は信長からはげしい叱責を受けた。ルイスフロイスも伝聞ですが書き残してます。
前回ブログでは羽柴秀吉邸跡の写真を掲載しましたが、これは秀吉邸の楚石等から推測した秀吉邸ジオラマです。道をはさんで前田利家邸があり、更に斜め上には徳川家康邸がありました。山裾の大手道沿いにありもっとも城郭外に出やすい位置にありました。また行幸があれば一番目に付く場所の為、立派な櫓門がまず目につきます。
信長の館のエントランス部分。家康、信長、秀吉の三大武将の甲冑・兜が展示されています。
安土城で不審火で炎上したのは天守と本丸です。それ以外はまだ使用されていましたが実権を握った秀吉により廃城とされます。この写真のような絵は実物に近いと言われていますがジョバンニニコラオが信長死後数年たって描いたものといわれています。つまり実際見て書いた肖像画ではありません。なんとなく濃いめの外人ぽい顔立ちもそのせいでしょうか
焼け焦げた瓦や壁土、安土城跡は予算の関係なのかまだ発掘調査・整備が半分も終わっていません。この先調査が進めばいろいろな事が分かってくるでしょう。しかしもし着工しても50年~100年はかかるそうです。
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