高杉晋作博多を走る!①

高杉晋作は禁門の変後は俗論党が長州藩の政権を握り、下関の白石正一郎を頼り中村円太の手配により筑前福岡に亡命し、九州連合を画策しました。石蔵屋、対馬藩邸に潜み月形洗蔵含め筑前勤皇党のメンバーと密談をし、鳥栖までいき佐賀藩を説得しようとしますがかなわず、平尾山荘で野村望東尼に匿われます。その後に再度博多に潜入していますが時系列・ルートはいまいちはっきりしません。帰りに一旦博多を出て、すれ違った長州藩の同士と合流する為に石堂橋より戻ったという説もあります。まずは今回ははかた博物館(ハカタ・リバイバルプラン)の電柱歴史案内に基づいて執筆しています。主催者の立石ガクブチ店の店主にもお話を聞きました。

こちらが今回紹介する、高杉晋作の博多侵入ルートです。

常盤館跡(若松屋)→対馬藩屋敷に戻る為、ここで筑前勤皇党の同志(月形洗蔵)を待ちました。なぜ一旦出た博多に戻ったのかは浦辺登さんの著者「維新秘話福岡」によりますと、博多を出た晋作が宗像の早川勇邸につくと長州藩報国隊の野々村勘九郎が博多にむかっているの入れ違いになり(駕籠の中で眠りこけすれ違いに気がつかなかった)長州の情報が聞きたい為に博多に戻りました。こんど真偽を確かめたいと思います。

MAP上のスタート地点常盤屋跡は写真の通り、ガソリンスタンドの横のビルの片隅にあり、道路側から気がつく人はまずいないでしょう。しかも柱に隠れています、元福岡市長の進藤一馬さんの揮毫ですが、福岡藩士で玄洋社の創業者の一人進藤喜平太を父に持ち、自身も玄洋社の社長を務めました。玄洋社の御用達のお店だったようです。この常盤館は江戸時代は若松屋という水茶屋でした。古地図でみると若松屋は濡れ衣塚の側でこの碑があるところではなくもっと西側にあります。区画整理や道路拡張、護岸整備などで追いやられたのでしょう。高杉晋作潜伏の地の石碑を建ててほしいです。ちなみに進藤一馬さんは福岡市美術館の入り口前の芝生スペースに等身大以上の立派な銅像があります。福岡市は銅像を建てる基準がおかしいと思ったのは私だけでしょうか。いかにもこの美術館を作ったのは俺だ!みたいな場所に建てられています。多分福岡市で一番立派な銅像です。



旧博多市街にこの石堂橋から進入します。酷暑なので夕方から自転車で取材を始めたので西日がさしています。この橋はもちろん江戸時代の橋ではなく建て替えられた近代の橋です。如水や長政の墓に福岡城から歴代藩主が参詣する時に石堂橋を通過して箱崎道方面に行けばすぐ菩提寺の崇福寺があります。藩主が通る時は事前に御触れがあり、正装して出迎えたそうです。

この橋には博多川に橋を渡った場所に石堂口門があり番所がありました。福岡藩は江戸初期、仮想敵国で仲の悪い豊前の細川を警戒していました。そうするとここ石堂川の内側が防衛ラインとなり軍事基地ともなる寺町となりました。今や一見しょぼい狭い橋ですが江戸時代は重要な役割を担っていました。博多で面白いのは中世前期の防衛ラインが元寇の影響で海側は石塁で固め中ほどの明治通りあたりは堀を掘り掘った土で土塁を盛り上げています。また南側(博多駅側)は萬行寺の裏当たりに房州掘りという巨大な堀を作り比恵川を付け替え石堂川をつくりました。博多の石堂川(御笠川)は時代はわかりませんが中世に造られた川です。いまでも元土塁の場所は高低差があったり堀の石組が残っていたり痕跡好きな人にはお勧めです。

諸説あるでしょうがこのはかた博物館の電柱歴史案内に沿って町歩きをしたいと思います。野村望東尼お手製の半纏を着て若松屋の女の子を抱えてまんまと石堂口門を突破します。お供は瀬口三兵衛で海元寺と一行寺の間を抜け海元寺の角を右に曲がります。

この山笠は2018年千代流れの飾り山です。一番上方が野村望東尼で、古い民家のような建物が望東尼の平尾山荘です。中段が石堂橋を渡る晋作です。右下はおそらく?柳町と月形洗蔵ではないでしょうか。水しぶきは石堂川(御笠川)でしょう。この場面は1864年11月の出来事ですが三人とも明治を見ずに幕末で亡くなっています。永久保存してほしいくらい秀逸な飾山です。

電柱の歴史案内・・・1864年11月、帰藩を決心した高杉晋作は野村望東尼の平尾山荘から志士達との合流場所新茶屋【若松屋】に赴いたが、待ちくたびれた晋作は、彼になついた店の可憐な少女を背負い、若松屋の提灯に先導させ【石堂橋】を渡りここにあった関所の門番の目を欺いて【柳町】の【梅ヶ枝屋】に繰り込んだ。暫しの後。楼の裏に降り大浜の海辺に沿って、対馬小路の【対馬藩邸】に乗り込んだ。

高杉晋作の九州潜伏ルート1864年11月

下関→博多石蔵屋・対馬藩蔵屋敷→鳥栖、田代代官所→平尾山荘→下関

さてこれのどこの時系列で石堂川を渡ったのでしょう?電柱歴史案内が正しいかどうかわかりませんが、もう少し歩いてみましょう。




橋を渡り昔は石堂門があり番人もいたであろう場所です。右の建物は海元寺です。閻魔様で有名なお寺です。道をはさんで向かいには一行寺があり、古地図を見ても石堂口門(番所)は場所は幕末より変わっておらず、ここを通過したのはまちがいないと思います。写真で車が走っているあたりで右折すると、柳町に続く竪町筋に入ります。

このブログに興味をもっていただき実際町歩きをしようと思われた方もいらっしゃるでしょうから、町案内もしつつ進めていきます。右折して晋作が通ったであろう、竪町筋です。戦後に139万人の引き揚げ兵が歩いた道です。この道には古い町屋があり、ノスタルジーが満ち溢れています。但し、旅行者向けの博多の観光案内図にはまず載っていません。

みねとこ・・築130年以上明治中期に建てられた町屋。現役の飲食店で喫茶もやっています。


築250年の遠藤家・・ここの前を晋作は走って柳町(遊郭)に向かいました。電柱のしたにある石碑には「旧下竪町・・黒田公入国後石堂川護岸工事が行われてこの町が生まれまた南北線のための竪町という」ようはそのまんまの町名です、ちなみに子の石碑は元はチンチン電車の敷石でした。


築100年程の高橋邸、ここは引き戸が開いていたので入ってみましたが、博多町屋のサロンのようになっていました。引き戸の真ん中にはコーヒーカップが10セット程置いてありご自由にお持ち帰りくださいと書いてありました。


柳町(遊郭)跡へ左に曲がります。MAPでは【博多高等学園】で検索します。この写真でクロスする道が微妙にずれているのがわかります。江戸時代と中世の道のずれか、防衛・戦略上でずれているのかはわかりません。


幕末タイムトラベルⅡ!

幕末タイムトラベル第二弾です。

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