仙厓さんと歩く博多散歩
博多駅からの町歩きでは東長寺、承天寺、博多千年門、聖福寺が固まって有り、もち吉の本店も近くにあるので定番コースです。他にも龍宮寺や楠田神社も町歩きの圏内にあります。
なかでも聖福寺は歴史の古い鎌倉時代より存在する有名なお寺です。ここの123代・125代住職である仙厓さんはヘタウマな絵で人気が高いです。上手な絵から後年の絵になるほど技術を捨ててヘタウマな絵になりますが、高い所に上り詰めたら手を放して落ちろと言う禅の教えそのまま絵の技術を捨てています。と言いましても〇△▢のような難解な絵や謎解き、禅の教えを含む絵や何を言わんとするのか考えさせられる絵ばかりです。〇△▢を仙厓研究の先生が「宇宙」であるとか、「おでん」であるとか長年研究しても答えが出ないのも仙厓さんは草葉の陰で笑っていることでしょう。
聖福寺まではMAPで見てもらえば誰でも行けますが、仙厓さんのお墓はわかりにくく今回は道順を説明します。
聖福寺には正面向かって左に勅使門があり、右側に一般の人が入れる総門があります。山門や仏殿等見どころも多いですが今回は仙厓さんのお墓に行く道順を解説します。上の写真の石畳を真っすぐ行けばいいのですが、聖福寺の境内を囲む外塀と前面の道路と総門を入って中の石畳や全体の建物の向きが10度程ずれています。なぜかといいますと、聖福寺の境内の敷地は鎌倉時代創建当時の配置で、前の道路と外塀位置は太閤町割りで角度が変更されています。
もう一つ総門から一歩入ると地面が一段低くなっています。創建当時は博多浜という砂丘の高台にあり背面は海になっていました。ところが開発が進み周りの方が地面が高くなり今は一段低くなりました。これらは字で説明するとわかりにくいですが実際に行ってみると実感できます。昔は博多は明治通りより北が息浜(おきのはま)南側(博多駅側)が博多浜と言われていました。今の博多は大部分が砂丘と海でした。
先の石畳を真っすぐ行けば寺務所がありますが、とにかく突き当たって左に曲がります。
開山堂の門が見えていますがこちらからは入れません。突き当たって右に曲がってすぐの場所に入れる木戸があります。
↓この矢印の木戸から入ります。
やっと入口まできましたが何やら張り紙がしてあります。【立ち入り禁止】と書いてありますがよく見ると、犬を連れての散歩の人の入場を禁じていますが、仙厓さんのお墓には行けるようです。ここを入り開山堂の裏手にあります。
入ったらいけないようなオーラが出ていましたがこれを見たらどうやら入ってもよさそうです。ですが気の弱い人は【立ち入り禁止】の書付を見てスゴスゴ帰るかもしれません。さあ勇気を出して行ってみましょう!
無事たどりつけ参拝する事ができました。ここで注意ですが、門を入るとすぐプテラノドンのようなばかでかいカラスに襲われ威嚇の為か体にぶつかるように飛んできました。カバンで追い払いましたが頭上で不気味な鳴き声をあげて見張っていました。くれぐれもご注意を・・
ここで最後に総門から入って仙厓さんのお墓にたどり着くように案内図に分かりやすく赤線を引いてみました。いかがでしょうこれで辿り着けなかったら私の責任では無く方向音痴という他ありません。さて仙厓さんと博多散歩と銘打ってますのでここ以外にも仙厓さんの痕跡をさがしましょう。まずは仙厓さんは幻住庵の虚白院を後年住居としていました。
幻住庵は通常非公開です。こちらに虚白院があり仙厓さんは住んでいました。特別公開があればぜひとも行きたいです。聖福寺と隣接してあります。まだ見たことはありませんが仙厓さんの絶筆の石碑があるはずです。絶筆というのに来る人来る人紙を置いていったそうです。「うらめしや わが隠れ家は雪隠か 来る人ごとに紙おいてゆく」逆にもう書いてくれなくなると皆あせってきたのかもしれませんね。
こちらは大博通りに面して建っている東長寺の六角堂です。説明版を読みますと。
天保十三年建立(1842)博多の商人豊後屋栄蔵(萬歳楼袖彦)は名古屋以西の商人より浄財を募って名古屋の名工伊藤平左衛門を招き施工した・・とあります、クラウドファンディングのアナログ版です。
この六角堂には六体の仏像が安置されています。経蔵になっていてこの厨子は回転するようになっています。扉絵には文人・墨客が書画を描いているのですがここに仙厓も描いています。具体的にどれが誰の作品かは書いて無かったので判別できませんがこの扉絵は仙厓さんの絵ではないでしょうか。なんとなくノビノビとした筆致です。疑問が残るのは仙厓さんは1837年に亡くなっているので、年代が合いません。先に絵を依頼していたとあれば最晩年亡くなる直前に描いたと考えられます。
正定寺の「八丁へ」
仙厓さんが親しかった魚問屋の西頭徳蔵のお墓があります。揮毫は仙厓さんです。西頭徳蔵の邸宅の塀が八丁あった事から通称、博多八丁兵衛と呼ばれていました。仙厓さんは八丁へと呼んでいたようです。当時の正定寺の住職さんも面白い人だったのか、めんどくさがりの八丁兵衛の戒名を徹誉免道善士(てつよめんどうぜんし)にしています。ここでまた年代がおかしくなります、八丁兵衛が亡くなったのは1848年で仙厓さんが亡くなったのは1837年ですから揮毫できるわけありません。しかもお墓というのに赤い文字です。こんなお墓はこれ以外に見たことありません。この八丁兵衛はとんだお調子者で生前葬をはでにやらかしたそうです。よっぽど仙厓さんがつけたあだ名が気に入って、この墓石も大いに気に入り皆に見せたかったのでしょう。
0コメント